「選択の失敗」論への応答

 わたしたちがtwitterを通して提起した主張に対しては、多くの賛同意見だけでなく当然少なからず批判的な意見も寄せられました。特に、「立命館大学へ進学したことが悪い」、「文句があるなら他の大学へ移ればよい」といった「選択の失敗」を非難するものが多く見受けられます。こうした意見についてわたしたちの見解をここで短いですが示しておきたいと思います。

 こうした意見には、まず人びとには「選択の自由」(この場合はその選択のための努力も含まれています)が与えられており、その選択を誤ったのは各人の自己責任なのだから、その失敗を反省すべきであって、それを他者に向けるなという考えが根底にあるように思われます。 しかし、そうした「選択の自由」を標榜することにより、すべての責任を個人の「選択の失敗」に帰することで、生じる問題を「私的な問題」として矮小化させてしまい、大学の持つ問題性を覆い隠してしまいます。これは問題を感じている人が去っても解決されることでは決してありませんし、「立命館だけでなく自分の大学でも問題となっている」というリプライも多くいただいています。
 また、「私立大学はそもそも金儲けをすることが前提だ」という意見もありますが、11/16付の京都新聞朝刊6面の当大学副学長のインタビューにもあるように、大学側も大学をただ教育サービスとして消費されるものだとは言えず、建前ではあるとしても大学の持つ公的な役割を意識せざるをえません。

 問題を自己の問題として矮小化してしまうことなく、大学・社会の一構成員として、立命館大学だけでなく日本における大学の現状を問い直し、あるべき大学とは何かをわたしたち自身が模索していくべく、私たちは実際に主張し、また活動しています。